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清水の名所

笈沼 正二(清水支部)

清水の港

先日、土木施工技士会のHPに原稿を依頼され、さて、何を書こうかといろいろ悩んだ結果清水支部で初めてのHP投稿ということで、少し清水の名所を紹介しようと思います。

清水の全国区で有名な所といえば、「清水港と次郎長」そして「羽衣の松」と言った所が名のうれた所でしょうか、この辺を少し紹介したいと思います。

清水の港が歴史上の記録にどの頃から残っているかを見ると、奈良時代(西暦600年代百済への救援船が清水より出航したとの記録が残っているそうです。戦国から江戸時代には軍事上の要地また交易地として重要された地であったようです。徳川家康が江戸時代清水を軍事上海上交通の要衝と考え港町を作ったとされています。

ペリー来航により横浜開港と供に清水港も開港準備が始まり、近代港としての幕開けが始まり現在に至っております。

現在の清水港は、新興津に水深15mのコンテナ岸壁が供用されコンテナ輸送基地して成長しております。

新興津 15mコンテナ岸壁
新興津 15mコンテナ岸壁

清水の次郎長

次郎長生家
次郎長生家

清水の港に回船問屋 、回船宿、魚市場などができ、大いに賑わっていた時代、文政3年(西暦1820年)に清水町美濃輪の船待船頭の三右衛門の次男に生まれ、元の名を長五郎と言い、叔父、山本次郎八の養子となり次郎八の家の長五郎で次郎長と呼ばれるようになったものです。23歳の時、博打のもつれから人を斬り清水を離れ、無職渡世の門をくぐり諸国を旅した後、清水に戻り地元の喧嘩の仲裁をしたことで侠客としての名声が高まり清水湊に一家を構え「街道一の大親分」になっていきます。

幕末に清水沖で幕府艦船と官軍とが交戦、幕府軍は破れ多数の幕府軍の兵士が清水の港に浮いているのを死ねば仏であるとして丁重に埋葬したことが、幕臣山岡鉄舟に深く感謝され、以後長く交流を持つようになったとされている。 明治に入り次郎長は清水地区の発展に様々な貢献をしています。

末廣(次郎長の船宿)
末廣(次郎長の船宿)

港を整備し横浜との定期航路を開設、私塾による英語塾の開設、囚徒を督励し富士の開墾、三保の新田開発等をすると供に、協同出資による株式会社静隆社という回船問屋を設立し事業をも起こしている。反面博徒一斉取り締まりにより懲役7年の刑も受け収監されている。

明治26年6月74歳で風邪が元で死去、清水梅蔭寺に埋葬されている。

次郎長以後、清水一家は五代目まで続き、昭和41年清水市長の元に解散式を行い清水一家の幕を閉じた。

次郎長の墓(梅蔭寺) 石松・大政・小政・仙右ェ門の墓
次郎長の墓(梅蔭寺) 石松・大政・小政・仙右ェ門の墓

羽衣の松

清水の港から少し南下した名所「三保の松原」のなかに「羽衣の松」があります。

御穂神社の御神木として社前の参道500m続く松並木「神の道」の先端の海岸に樹齢650年の「羽衣の松」が鎮座しております。

御穂神社の創建は不明であるが千古の昔より、三保大明神として国土開発の神、海の神として崇められ天女が舞い降りた「羽衣伝説」ゆかりの地として有名な延喜式内社である。

海の神は駿河湾の深海より舞昇り羽衣の松から、神の道を通り神殿に入り、天の神は天から羽衣の松に舞い降り神の道を通り神殿に入り祀り事をおこなうようです。

羽衣の松の伝説は、この地に降り立った天女が羽衣を松の枝に掛け水浴びをしていた時漁夫白梁に羽衣を奪われてしまう。天女は天に帰る事が出来ないと嘆き悲しみ返してほしいと懇願します。

白梁は天女の舞を見せてくれることを条件に羽衣を返すと天女は喜んで舞を舞ながら天に帰っていったという伝説であります。

御穂神社神殿 松並木「神の道」
御穂神社神殿 松並木「神の道」
樹齢650年「羽衣の松」
樹齢650年「羽衣の松」

ほかにも色々おもしろいところが数多くありますので、時間がありましたら是非、清水の名所の散策においでください。

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